« »

レビュー紹介 / 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena
http://d.hatena.ne.jp/shamano/20090907/1252342278

情報環境研究者、濱野智史さんのヱヴァンゲリヲン新劇場版:破についての論考です。刊行される予定で書かれたそうですが諸事情により刊行されない運びになったのでウェブにアップされたそうです。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を「セカイ系」や「データベース消費」というキーワードを用いて旧作と比較し変化している部分を書かれています。また庵野監督のアーキテクストとしての側面からストーリーを、旧作から10年を経て変化したオタク文化まで幅広く深く考察されています。

以下私が気になった部分を引用します。

この直後、シンジはレイを救済すべく、ゼルエルの内部でうずくまるレイに対し叫びかける。するとレイはその救済を、あの有名な言葉とともに一度は拒絶する。「いいの、碇君。私が消えても代わりはいるもの」と。レイの周囲を取り巻く、複数のプチ・レイたちもその言葉をリフレインする。しかし、シンジはその拒絶を即座にはねのける。「違う! 綾波は綾波しかいない!」と。ここに込められた《反転》はいうまでもなく明らかである。そもそも綾波レイというキャラクターは、「虚構世界においてキャラクターの身体はいくらでも複製・変形可能である」という条件を露悪的なまでに具現化したものだった。レイの存在が画期的だったのは、たとえばテレビ版第弐拾参話で水槽に浮かぶ無数のスペアパーツとしてのレイたちに《不気味さ》を感じると同時に、現実世界では無数のレイの二次創作やフィギュアといった派生的消費財《ルビ:スペアパーツ》を何の《不気味さ》も感じることなく享受することができるという、私たちの「ダブル・スタンダード」的な感受性をあからさまにした点にある。しかし、今作のシンジはレイの交換可能性を否定し、彼女の固有性を主張する。すなわちここには、旧作では「交換可能」で「複数的」だったものが新作では「交換不可能」で「固有的」なものへと《反転》させられていることが確認できる(反転2)。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

このシーンで心が揺さぶられたのを覚えていますし、多くの人も同じ感情を抱いただろうと思います。THE END OF EVANGELION(以下:EOE)との決定的な違いは、EOEのシンジがレイの「交換可能」で「複数的」なものを拒絶し逃げるのに対して、「交換可能」「複数的」を否定して自らレイを助けるという能動的な行動を取る事によってレイの固有性を自ら見出している事でしょう。特に自ら価値を見出すという事が重要な点だと思います。

旧作の意味内容を、ことごとく今作では《反転》させるという形式的な操作なのであり(よく知られているように、制作者側はその操作的意図を強調するべく、今作を「リメイク」ではなく「リビルド」と区別して呼んでいる)、旧作にはりめぐらされていた「セカイ系」的な物語の系列をすべて否定し、きわめてポジティブなキャラクター像とその成長物語を打ち出すことが意図されている。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

EOEを含む旧作との違いを意図的に表すならば、世界を受け入れる、認めるだけでは不十分で自分の価値で世界を生きていくのが明確に表されなければ意味がありません。シンジのポジティブ?への変化はその結果と考えられます。ここにヱヴァンゲリヲン新劇場版に込められた価値があります。それは自分を世界に合わせるのではなく、世界を自分に合わせる。他者の固有性を自らの力(我が儘、独善性)で認めることです。しかしあまりにも作品全体のスジが明確になっている事は否めません。そして以下にも同意せざるを得ません。

よって今作には、各要素は予見も理解も不能だが、その要素の数ホップ先には「何か」があると感じさせるようなコンティンジェンシーの豊富さ・濃密さを感じることはない。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

しかしある意味これは当たり前の事だと思います。なぜならエヴァという作品が庵野監督の個人性を濃厚に反映しすぎているからです。エヴァをリビルドする事によってヱヴァが作成されている以上、自分自身の個人性を更に尖らせてにして自分の個人性を表そうとしているようなモノで、そこに外側からの異質なものを絶妙なバランスで取り込まなければ、何かがあるという作品の濃密さを出す事は難しいでしょう。ですが「序」「破」と明らかに変化があり、庵野監督自身も「映画は観客、スタッフ、キャストのもの。監督のものではない」と言っている事、マリというキャラクターがその布石と考えると、今後の2作では更に意識された作品になるだろうと期待しています。

そしてオタク文化の現在を書かれています。

昨今「ライトオタク」と呼ばれるような、非常に「緩くて」「薄い」オタクたちの存在である。ライトオタクたちは、動画共有サイトを通じて、ワンクリックで瞬時にアニメ的なコンテンツを消費する(しかもMADムービーという「要約的コンテンツ」を視聴すれば、アニメ本編をすべて視聴するコストすらも軽減できる)。そのアクセシビリティの高さとコストの低さゆえに、いま若者たちは、《オタク》というキャラ属性を瞬時に身にまとってコミュニケーションすることが可能になった

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

耳が(目が?)痛い人も多くいると思われます。私は自身がライトオタクであるが故に痛みます。明らかに語れないものに対して、表面をなぞって語る自分自身への痛さというものを感じざるを得ません。このサイトも多くの人々の表面をなぞる事で成立させており、キャラ属性をまとっている事、まとった状態が本物であると認識したいという訳のわからない状態でサイトを運営しています。言うなれば固有性の獲得の為のサイトです。ですから「破」のシンジがレイを助けるシーンに心が揺さぶられると感じています。

庵野がかつて苛立ったような自閉的なオタクたちはもはや存在しないように思われる。むしろそこには、徹底的に軽く、薄く、オープンな、コミュニケーションの連鎖だけが存在しており、そしていまや『新エヴァ』という作品は、そうした「繋がりの社会性」をより大きく束ねるための器――巨大化した綾波レイのように、とでもいおうか――と化している。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考 – 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

エヴァは自閉的なオタク達へコミュニケーション回路を与え、多くのオタクが外の世界と繋がる事が出来る事ができたと思われますが、コミュニケーションから退避し自らの世界の安住を願って住みついたオタクにとっては、好ましい変化ではないでしょう。この変化はオタクでももっとも外の世界から逃避し尚且つ外の世界に憧れを持つモノに怒りと諦めを持たせると思います。それが良いか悪いかは別にして「徹底的に軽く、薄く、オープンな、コミュニケーションの連鎖」は今後さらに広がり、次回作も同様の消費が起こるのは間違いありません。とすれば、もはや作品と対で向き合う関わりはなく、他人の顔色を伺って作品との関わりを決めるのが、今後の在り方でしょうか。しかしそれは自ら価値を見出す事とは対極です。私にはそれがヱヴァの作品性を否定することにように思われてなりません。

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

TrackBack URL :

コメントする





 « »